素粒子論ってどんな学問?

(2008年頃の執筆)

1. 物理学

物理学は、自然現象のしくみを観察や実験に基づいて考察し、原理や法則を見つけ、それらの経験則を体系化することにより身の回りの現象を説明するだけでなく、未知の現象を定量的に予言できる理論体系を構築することをめざしている学問です。 自然を描写すると言う意味では、芸術や文学と同様、自然認識の一形態に過ぎないとも言えますが、その扱う対象は銀河団(銀河のあつまり)が点に見えてしまうようなスケールの大宇宙の振舞いから、ミクロの極限の物質である素粒子にまで及んでいます。また、物理現象の背後にある法則を理論化することにより、定性的な理解だけでなく定量的な予言をするわけですから、客観性と言う点で大きく異なります。(物理学ではありませんが芸術や文学が素晴しいものであることは言うまでもありません。)

我々が存在する宇宙の中の事物で物理学の研究の対象にならないものはありません。最も大きなスケールである宇宙の創成とその進化発展は素粒子の物理で決まる事が知られています。森羅万象(時間的空間的なひろがりとしての"宇宙"に存在するありとあらゆる事象)を統一的に理解する事ができるという面白さが物理学にはあります。

もちろん現時点で物理学は完成していませんから、全てを統一的に理解するには まだまだの状況にあります。それでも今までの物理学の発展によって、大変多くのことがらが定性的にはもちろん定量的に理解されています。おおざっぱに、我々の宇宙の始まりがどのようであったのか、宇宙は誕生直後にどのような状態でいかに発展してきたのか、そして星やわれわれはどのようにして形作られてきたのかについてかなりの事が分って来ました。

2. ビッグバン宇宙

現在では、様々な天文学の観測によって、どうやら宇宙の始まりは、大昔にビッグバンと呼ばれる状況によって引き起こされたと考えられています。その瞬間に時間と空間が発生しました。点のような小さい領域で始まった宇宙は爆発的に膨張し、その膨張は現在でも続いています。最初期の宇宙は、想像を絶する高温、高密度、高エネルギーの状態にありました。物質はすべてバラバラの素粒子として存在している状態です。その後、宇宙は膨張とともに冷却していき、バラバラだった素粒子が反応し結合して、やがて元素が合成され、原子ができ、それらが万有引力で集まってさらに星などになり、それらが集まって銀河になり、星の中ではあらたに重元素が生成され、超新星爆発でそれら重元素がバラまかれ新たな星の材料になり、、、このようにして宇宙が現在のような形態になった。宇宙に対するこのような考え方を理論化したものをビッグバン宇宙論といいます。ビッグバン宇宙では、素粒子の性質が宇宙の進化発展に深く関わっています。

この素粒子の振舞や性質を研究する学問が素粒子物理学です。上でのべたように初期宇宙の振舞を洞察し明らかにするために素粒子物理の理解は不可欠のものになっています。

3. 素粒子物理学(理論屋と実験屋)

ところで素粒子物理の研究者には、実験をしてデータを取り洞察し仮説を立てる実験屋(実験物理学者)と、実験はせずにデータを用いて(あるいは用いずに)洞察し仮説を立て理論を構築し予言する理論屋(理論物理学者)によって研究されています。

実験屋は、加速器を使って加速した素粒子どうしを衝突させ、高エネルギー状態(宇宙初期に近い状態)をつくり出し、いろいろな素粒子の振舞いを調べたり、新たな未知の素粒子の探索を行なっています。日本には茨城県つくば市にあるKEK(高エネルギー加速器研究機構)で世界的な素粒子実験がなされています。また、はるか宇宙から飛んで来る宇宙線に含まれる素粒子を観測したりもします(神岡にある東大宇宙線研究所のスーパーカミオカンデ、カムランドなどはそのような目的の観測施設です)。実験屋には注意深い観察力はもちろん、実験を発案する企画力、データを扱う分析力、実行力が必要と思われます。さらには大きな実験では予算を獲得するための政治(?)力、決まった予算の範囲で最良の成果を出すための経済観念なども大切と思われます。

一方で理論屋は、頭をこねくりまわしていろんなアイデアを理論化(模型化)し現象を数理的に説明したり、理論の面白い物理的性質や数学的性質を調べたり、いろんな素粒子現象を計算して予言しようとしたりします。 このような仕事の性格上、理論屋には深く考える力(洞察力)、数学的思考力(分析力)、そして何よりもアイデアを生む力(創造力)が要求されます。また、あまり知られていないことですが、研究では時として極度の精神集中を持続する必要が生じるため(要するに徹夜して考え続けるとか)、それを可能にするための体力と、それから楽観的な精神も必要なんです。
理論屋が研究に使うのは、伝統的に紙と鉛筆、文献とそれから議論をするための黒板などです。論文の執筆や講演用のスライドの準備、計算の一部を行うのにはコンピュータを使います。最近15年ほどの間に文献の検索や入手はWebのアーカイヴを通じて行えるようになってきています。

4. 現状

我々は森羅万象を記述できる最終的な理論をまだ持っていません。上に述べたビッグバン宇宙論も大筋は分っているが、良く分らない部分はまだまだたくさんあり、まったく分らない問題もまだかなりあります。素粒子論にも標準模型と呼ばれる理論が既にありますが、後に述べるように理論的にも実験的にも完全なものではありません。そのため素粒子物理や宇宙物理はまだまだ発展途上の学問であるといえます。素粒子物理研究者が取り組むべき問題はたくさん残っているしこれからも増えるでしょう。それではごくおおざっぱにですが、以下で物理学の発展と現在の素粒子物理学の状況について概観しましょう。

物理学の発展と現在の素粒子論の状況について

1. 自然哲学から物理学へ

宇宙は何からできているのか?
宇宙を統べる法則はなにか?
そして宇宙はどのようにして始まり、発展してきたのか?

物理学は、これらの問を実験と数学的合理性によって根本的に解決しようとする学問です。その源流は古代ギリシャ時代 「万物の根源」を考察した自然哲学という学問にあります。時代がはるか下ってやがて自然哲学は物理学に取って代わるのですが、 両者の決定的な違いは、物理学は実験や観測に基づく学問、すなわちサイエンスであるということです。そのような方法が確立したのはガリレイからニュートンに至る時代で多分日本の江戸時代初期の頃です。

2. 古典物理学

その後、物理学は数学、特に解析学の進歩と相まって急速に発展し、19世紀後半には力学、電磁気学、流体力学、熱力学などの古典論がほぼ出揃いました。ところが19世紀の終わりは、黒体輻射のスペクトルを初め古典物理学では説明不可能な現象がどんどん出てきました。電子(素電荷)の発見や化学の研究から物質の根源としての「原子」という概念が芽生えていましたが、古典論に基づく原子模型はどれも問題がありました。ラザフォードの実験によって原子は重い原子核の周りを軽い電子が取り巻いているという見方が有力になっていたのですが、古典物理学の範囲内の知識では原子核の周りを巡る電子は電磁放射という現象によってエネルギーを失うため安定な原子を考えることは不可能でした。

3. 古典物理学から現代物理学へ

同じ頃、地球の絶対速度という概念は実験的に否定され、時空に対する古典的な概念も限界が見えていましたが、アルベルト・アインシュタインは光速度不変の原理と特殊相対性原理から「特殊相対性理論」を作り上げ、時空の概念に革命をもたらしました。さらにその10年後にアインシュタインは一般相対性原理と等価原理に基づく「一般相対性理論」を建設しました。これはニュートンの重力理論に取って代わる重力の理論(の古典論)として現代の宇宙論の研究には欠かせないものになっています。

さて、原子に関する問題を解決するきっかけになったのがプランクの光量子仮説やアインシュタインの光電効果の理論です。 やがてボーア等による前期量子論を経由して、不確定性原理に基づく"量子力学"という学問体系ができました。ボルン、パウリ、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、ディラックなどによって量子力学は定式化され、 量子力学によって非常にたくさんの微視的現象が解明されました。

4. ゲージ場の量子論と素粒子物理学

しかしながら、電磁気学の相対論的枠組みでの量子化の実現は、いわゆる紫外領域における無限大の処理の問題のために時間がかかり、日本の朝永振一郎博士やアメリカのリチャード・ファインマン、ジュリアン・シュビンガ-の努力によって相対論的量子電磁力学が最終的に完成するのは第二次世界大戦直後まで先送りされました。この「量子電磁力学」(QEDと略されます)はわれわれが知る限り最高レベルの予言能力を持ち、原子核の外側で繰り広げられる現象のほとんどが 精密に定量的に説明できるようになりました。

一方、原子核の内部の現象に関しては1930年代に湯川秀樹が核力の理論(中間子論)を作り中間子の存在を予言しました。またエンリコ・フェルミが弱い相互作用の理論を創出していましたが、これらの相互作用に対する真に合理的な理論体系が出来るまでにはさらに非常に多くの努力が必要でした。弱い相互作用に関しては、1960年代後半にグラショウ、ワインバーグ、サラムが電磁気学と弱い相互作用を統一的に記述する電弱ゲージ理論を完成し、その数学的整合性はトフーフトによって証明されました。この理論には鏡像反転変換(P)に対して理論が不変でないという特色があります。また荷電共役変換Cもこれらを同時に行うCP変換に対しても理論は不変になっていないことが確認されています。一方、核力(強い力)は相互作用が強いために電弱理論で用いられてきた摂動論という計算手法が単純には適用できず、一時は場の量子論とは異なる枠組みで研究されるなどさまざまな紆余曲折がありました。そのような混乱の後に、非可換ゲージ対称性に基づく場の量子論には「漸近的自由性」という性質が あることが分かり、最終的に1970年代になって量子色力学(QCDと略されます)と呼ばれる理論として完成されました。これは、原子核を構成する陽子や中性子や中間子(一緒にしてハドロンと呼ばれる)は、現在では素粒子ではなくクォークと呼ばれる点状の素粒子が集まって出来たものと考えられ、クォーク間の相互作用はグルーオンと呼ばれる粒子によって媒介されるというものです。ゲージ理論の帰結としてクォークはハドロン内部に「閉じ込め」られており単体で取り出すことができないということも説明されます。

ところでこれらの理論の指導原理となったのは量子力学と特殊相対性理論、それに「ゲージ原理」といわれるものです。このゲージ原理に基づく理論は一般にゲージ理論と呼ばれ、重力を含むすべての相互作用を記述する大変合理的な理論であり、「ゲージ場の量子論」は今では現代素粒子物理学の言語として確立しています。

5. 素粒子標準模型

現代では電弱理論(ゲージ対称性はSU(2)×U(1)という直積群)と量子色力学(ゲージ対称性はSU(3)という単純群)をあわせたものを素粒子標準理論とよんでいます。標準理論は大変優れた理論体系であり、これが予言する現象の多くは加速器実験により精密に検証されて理論の予言との有意な差異は見つかっていません。

さて、標準模型の枠組みでまだ未確認の粒子としてはヒッグス粒子があります。これは、弱い相互作用を媒介する素粒子(弱ボソン)に質量を与えるために導入されたスピン0の素粒子です。実験によると弱ボソン(電磁力学の光子に対応する)は非常に重い質量(80ギガ電子ボルト)を持っています。一方でゲージ理論には相互作用を媒介する粒子は質量をもてないという定理があります。この矛盾を解決するために、ヒッグス場が真空凝縮を起こし「電弱対称性の自発的破れ」という現象を引き起こすことを考えます。対称性が破れた真空の上では電弱相互作用のSU(2)×U(1)直積群が部分的に破れて電磁相互作用(QED)のU(1)群だけが残っているわけです。標準理論ではこのヒッグスの真空凝縮は弱ボソンだけでなくすべての有質量の素粒子(クォークやレプトン)の質量の起源と考えられています。

現時点では、ヒッグスは未発見つまり未だ想像上の素粒子です。CERNのLEP実験やフェルミラボのテバトロン実験など今までの加速器を使ったヒッグス直接探索の実験で見つかっていないことからその質量は大体114ギガ電子ボルト以上の質量を持つといわれています。 さて、2007年からCERNでスタートするLHC実験は、ヒッグス粒子の発見を主目的としている実験ですが、これは7テラ電子ボルトに加速した陽子を正面衝突させて(つまり衝突エネルギーは14テラ電子ボルト)お互いの陽子内部のクォーク同士の相互作用からヒッグスを作り出すことを目指しています。この衝突エネルギーは、今までの実験データと理論計算による研究から予測される質量のヒッグス粒子なら必ず見つけることができると期待されています。ヒッグスボソンが発見されその質量や相互作用が明らかになれば質量の起源に対するわれわれの考え方、つまり標準理論のもっとも重要なアイデアが検証されるわけです。

6. ポストヒッグス問題と新物理学の可能性

さて、大変すばらしい標準模型ですが、LHC実験でヒッグスが見つかったらどうなるのでしょうか?それで標準理論が正しいことが確認されて、素粒子論は本質的に終わってしまうんでしょうか?答えはノーと考えられます。なぜなら、標準模型はいくつかの理由で「根本的に正しい理論」とは考えられていないからです。多くの素粒子物理学者は標準模型はやがて新しい物理学の理論に取って代わると信じています。その理由を大雑把にリストすると以下のようになります。

まず、標準模型のゲージ相互作用はSU(3)×SU(2)×U(1)のように3種類の群の寄せ集めになっていますが、これは われわれが到達できるエネルギー領域でそうなっているだけで、もっと高エネルギーではこれらの群をすべて含む単純群、たとえばSU(5)のようなもの、で統一的に記述できるのではないかという期待があります。つまり相互作用は高エネルギー で統一され、一個のゲージ場の結合定数で記述されると考えるわけです。このような試みは「大統一理論」と呼ばれ、多くの研究がなされていますが、今のところ完全なものはまだ作られていません。さらに重力をも含めた統一への夢がありますが、その手がかりとして重力の量子化の試みや超ひも理論などがさかんに研究されています。

次に、ビッグバン宇宙論は宇宙論と素粒子論を融合させる働きをしましたが、現代のわれわれの宇宙に関する未解決の大きな問題として、物質・反物質の非対称性の問題、暗黒物質、暗黒エネルギーなどがあります、素粒子標準理論はこれらの問題のいずれも説明することはできません。また、神岡の観測施設 (スーパーカミオカンデ)などでの近年の観測では標準理論では質量を持たないはずのニュートリノに大変微小な質量が存在する証拠が発見されました。このように素粒子の標準模型は観測的・実験的にほころびつつあります。

物理学者が標準模型は根本的な理論でありえないと考えるもう一つの大きな理由として「自然さの問題」があります。素粒子の質量を説明するために導入したヒッグス粒子がスピンを持たない粒子であることを重大な問題として考えています。この問題を説明するために、ヒッグス場の質量に対する量子補正の計算を考えます。ヒッグス場の質量を意味するファインマンダイアグラムのループを回る粒子はいろんなエネルギーを持ち得るので、そのすべての自由度を足し上げていくと無限大(の2次)を出して発散してしまいます。もし標準理論が根本的な理論なら、理論の適用範囲の上限(エネルギーの上限)は10の19乗ギガ電子ボルト(そこでは重力の量子化が重要になってくる)と考えられます。ヒッグスの質量はせいぜい1テラ、つまり1000ギガ電子ボルト程度なので、量子補正が余りに大きくなってしまいます。場の量子論ではこのような紫外領域の発散は繰り込みという手続きで数学的には除外することができるのですが、これは(10の19乗)の2乗から同程度の量を引いてせいぜい1000の2乗というはるかに小さい量を出すという操作をすることを意味します。つまり莫大なパラメータ合わせ(ファインチューニング)が必要になるわけです。この不自然さは標準理論のヒッグスの部分に出てきますが、ヒッグスは未確認であることから何か本質的に新しいアイデアに基づく新物理学がテラスケールの物理を支配しているのではないかと考えられるようになって来ました。

その際、ヒッグスセクターの正体が「新物理学」と密接に関係していると考えられると期待されます。今までに多くの「新物理学」の模型が提案されています。たとえば「超対称性」というアイデアではボソンとフェルミオンの間の対称性を持った世界を考えることにより上のような2次発散の問題は除去されます。他にも「力学的電弱対称性の破れ」、「リトルヒッグス」、「ゲージ・ヒッグス統一模型」など「新物理学」の模型はいろいろと提案されています。さて、これらの模型は低エネルギー(電弱スケール=100ギガ電子ボルト程度)ではだいたい標準理論のように振舞うはずです。

(2022年加筆)

2009年からスイスのCERNで始まったLHC実験で、ヒッグス粒子が探索され、ついに2012年に発見されました。その後、10年以上にわたってヒッグス粒子の性質は詳細に調べられつつあります。現在までのところ、発見されたヒッグス粒子は、実験の誤差や理論計算の不定性の範囲内で、標準理論の予想とほぼ同じ性質を示しています。しかし、今後、グレードアップされるLHC実験(HL-LHC実験)や、計画中の国際リニアコライダー(ILC)等の将来実験を用いてより精密にヒッグスセクターを探求することにより、標準理論予想からのずれが検出され、そこから標準理論を超えた物理学の方向性を決定できると期待されます。ヒッグスの物理は素粒子質量の起源を明らかにするとともに新物理学に対する窓としての役割を持っているのです。